「巨大ネコの新入りチェックから孫を守る祖母」
私の両親は今は年金暮らし。自営業だったから国民年金で、生活に余裕があるわけではない。本来なら私がいくらか助けなくてはならないのに、実家に行けば毎回食品や料理を持たせてくれる。息子の誕生前、妻は時間があって体調が良ければ、平日に一人でも私の実家に行って母と話をしていたようだ。妻は自分の母親とあまり話したがらない分、私の母の心配をしているようなところがある。
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私は母の34歳の時の子で、42年も前だから当時としては高齢出産の部類に入っていたかもしれない。父と一緒に牧場の仕事に汗を流し、私を妊娠中は悪阻もありながら臨月まで乳牛の世話をしていたという。
乳牛の牧場というのは過酷な仕事だ。今も全自動搾乳ロボットなんて導入しているのは日本国内でも片手で数えられるくらい。早朝から深夜まで肉体労働が続き、基本的に年中無休だ。ヘルパー制度を使えば冠婚葬祭で1~2日くらいは休めるが、私の両親はほとんど利用していなかった。
深夜午前0時から搾乳準備が始まったとすると、当時の我が家の規模で準備・搾乳・給餌・掃除が全て終わるのは午前3時。その上に子牛への哺乳などもある。まとまった睡眠時間はとれず、2~3時間程度を数回に分けて眠るのが普通。
そんな生活だったから、私と姉には家族でレジャーを楽しんだという記憶がほとんど無い。だが一度だけ、母に隣県の観光地の水族館へ日帰りで連れて行ってもらったのを覚えている。三人でイルカのショーを見たり、アイスクリームを買ってもらったり・・・。世の中にこんな楽しいことがあるのかと思ったが、その日帰り旅行の時間を作るために両親が短い睡眠時間をさらに削っていたことを知っていたので、もう一度とせがむようなことはできなかった。
私の祖母が認知症になると、介護のため母の時間は更に削られることになった。どうして他人の親にあれほど献身的になれたのか母に聞いてみたいと思うが、たぶん「それが当たり前だから」と返されるだろう。
その母が一度だけ、姉に対して烈火のように怒ったことがある。祖母の認知症が進み、小学生の姉に何か嫌なことを言ったのだと思うが、怒った姉は座っていた祖母の背中を泣きながらを軽く蹴ってしまった。この時の母の叱り様はそれまで見たこともないほど厳しいもので、母が姉を叩いたのはあれが最初で最後だったと思う。
その後祖母が徘徊を始め、冬の深夜に失踪して緊急捜索が行われるに至り、ついに老人ホームに入ることになったが、入所後毎日のようにホームに通い、祖母を最期まで看病したのも母である。
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43年前、母が私の妊娠を祖母に伝えた時、当時の生活の苦しさから「二人目なんかいらんのに」と言われたらしい。そのことを母がポツリと呟いたのは、私が妻と結婚することを伝えて暫くしてからだった。その時の母の気持ちはどんなだっただろうか。今、祖母に対してどんな想いがあるのだろうか。
私と妻が結婚するとき、母が妻へ望んだことは、私の子供を産んでほしいということだけだった。ただ、母は妻にそう言ってしまったことで、妻にプレッシャーを与えてしまったと悔やんでいたかもしれない。 その後妻が妊娠を報告するまで、母はそのことを一切話題にしなかったのだ。
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母から妻へのお祝いには短い手紙が入っていた。
幸せは、今ここにあり、苦は未来の宝。
明日を信じて、一女・一男に恵まれた。
”決して、甘やかしては、ならない”
そばにいて、やさしく、心のつえに、なってほしい
私の願いは、これだけ
一日も早く 元気になってね
帰宅して手紙を読んだ妻は、「ありがとう・・・」の後に言葉を続けられないまま泣いていた。
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今日は出産から入院していた病院の看護師さんに、医大附属病院や矯正歯科での治療内容や今後の予定をフィードバックした。せっかく病院ヘ行ったので、正確に体重を計ってもらったところ3560gだった。1日あたり50gのペースで、これはちょっと増えすぎに近い。「飲みやすく、飲みやすく」と哺乳に注意を払った結果、どうやら十分以上に与えてしまったらしい。口の中の潰瘍も見てもらったが、状態は良くなっているとのこと。
ミルクをたくさん飲んでくれるのはとても嬉しいのだが、しばらくは少し間隔をあけて回数を1回減らしたほうがいいだろう。そこで入院時に付けていたような哺乳記録を付けて管理するようにした。ミルクの間隔が開くとお腹が減って泣くことが増える。潰瘍を気遣っておしゃぶりを与えていなかったのだが、看護師さんの意見では使って構わないということだったので、帰り道で購入して早速使っているところだ。
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